「強くなければ」「完璧でなければ」——そう自分に言い聞かせて、ここまで走ってきた人は少なくないはずです。演じることに疲れながらも、降りる勇気も持てないまま、日々を重ねていないでしょうか。
伊野木操さんは、伊勢丹に入社してから40年間、営業の現場を歩き続けてきた人です。伊勢丹でバイヤーとして実績を積み、やがて部長になり、そしてエルメスジャポンへ転職。シニアバイスプレジデントとしてエルメスジャポンの舞台に立つまでの道のりは、決して順風満帆だったわけではありません。一度は部長職を断り、部下が誰もついてこない孤独な時期も経験しています。
そんな伊野木さんが、退職して1ヶ月経った今だからこそ語ってくれたのは、「無償の愛」という、意外な言葉でした。その変化の秘密を詳しくお聞きしました。
ポッドキャストはこちらからお聞きください。
「俺について来い」を演じた孤独
── ご自身の中で、40代になった時に何か変わったことはありましたか。
30代、20代の頃は、自分の能力を高めて、自分が成長することで会社に貢献できる実感を得ていました。あの自信を持って貢献できたな、ということがいくつもあったと思います。マネージャーになったのは30歳の時でしたが、当時はまだ部下も持たないバイヤーとしての仕事で、管理職というよりも自分一人でやっている感覚でした。
それが40代になって部長になり、チームを率いていく中で、男社会でしたし、部下も上司もほとんど男性でした。私が言うことも、あの男性の見よう見まねでリーダーシップを取るために厳しく言わなきゃいけない、はっきり決めて言わなきゃいけない、という風に振る舞っていたんです。
でも、そういうことをやっても誰もついて来ないし、私の直属の部下たちも、自分よりも上の部長を見ている。誰も言うことを聞かない。女性たちも陰で悪口を言っていたりして。個人で大きな売り上げを上げて貢献するというところではなくて、みんなでやらなきゃいけないんだけど、そのやり方が分からないんだ、ということに気がついて、すごく苦しかったですね。
── 部長になった時の不安やプレッシャーとは、その後どういう風に向き合っていかれましたか。
向き合っていったというよりも、常に向き合わざるを得なかったですね。ちょうどリーマンショックの時期だったので、うまく売り上げも取れないですし、何をやってもうまくいかない。色々提案しても駄目だと言われて、すぐに違うことを考えろと常に言われていました。
今考えたらリーマンの後だから、みんな駄目な時期だったのに、ずっと自分のせいだと思っていて。常に叱責をされ、なんとかしろと言われ、自分を責め、自分の能力やセンスがないんだ、とずっと思っていたので、乗り越える術もなくて、苦しかったですね。
息子が抱きついてきた、その日
── それはどういう風に変わってきたんですか。何かきっかけがありましたか。
当時、私はワンオペで息子を育てていました。息子がちょうど小学校の低学年ぐらいの頃、息子も荒れていたんです。私が心ここにあらずだったから、家に帰っても息子が荒れて、暴力的になった時期がありました。家でも駄目、仕事も駄目、本当に駄目だと思っていた時に、でも息子に対しては、私は逃げちゃいけない、彼を守れるのは私だけだ、ってふっと思ったんです。
それで、荒れている息子に、ちょっとママの膝に乗る?って、思い切って言ってみました。そしたら息子が、うんって言って抱きついてきたんです。
抱きついてきて、ああ、そうか。彼は、私が心ここにあるかどうかじゃなくて、私にちゃんと見てほしい、無償の愛を求めてたんだ、安心安全を求めてたんだ、っていうことに気がついたんですね。
その時に、はっと、もしかしたら会社の男性たちもみんな不安定で、それでどうしようどうしようって思っているんじゃないか、息子と同じように不安定であんなに怒っていたのかな、って結びついてしまったんです。
そこから、今までのリーダーシップじゃなくて、私が取れるリーダーシップっていうのは、無償の愛で包み込むことなのではないか。
そう思ったんですよね。その次の日から、状況が変わったわけじゃないんですよ。売り上げも良くないし、怒られるし、なんとかしろって言われるんですけど、
もう自分を責めるんじゃなくて、「分かりました、なんとかします、お任せください」って、
できないんだけど、そう言うようにしたんです。そしたら、なんとなく好転してきて。「じゃあやってよ」っていう感じで、怒られなくなったというか。
息子の不安定な部分と、男性の上司や周りの人たちがイライラしていたのは一緒だったんだ、みんな安定が欲しかったんだ、ということに気がついて。俺について来い、というリーダーシップではなく、自分が取れるリーダーシップは、まず「安心してください」「大丈夫です」と伝えることなんじゃないか。息子によって気づかされた、子育てとマネジメントが結びついた瞬間でした。
400人と歩んだ、吉祥寺店のクロージング

── 実際に、状況が好転してきたということはありましたか。
好転したのは、その部署ではまったく売り上げも上がらず、うまくいかなかったところから、初めて異動希望を出して違う部署に行ったことがきっかけでした。それが、吉祥寺支店の閉店作業をする営業統括だったんです。
閉店だとは言われずに行ったんですが、着任してすぐに「閉店だ」と言われて。400人ぐらい社員がいたと思うんですが、店長と一緒に、悲しい閉店じゃなくて次に繋がる閉店にしていこう、と決めたんです。本当にここはチームで、無事に閉店をすることができたかなと思います。悲しいことでしたけど。
それまでの辛かった経験があったからこそ、チームでちゃんと仕事をする、みんなを巻き込んで仕事をする、ということが、この閉店という辛い作業でもみんなでできた、という自信になりました。
── 閉店のために頑張るという方向に持っていくこと自体、大変だったと思うのですが、その時、何が変わったなと思いますか。
閉店という後ろ向きな仕事をみんなでやっていかなきゃいけない時に、その意味や意義、私たちがこれをやっているミッションって何なんだろう、この先に何が繋がるのか、という仕事の本質を、一段深く考えることができたのがよかったかなと思います。
百貨店の閉店は、今はすごく多いですけど、当時はまだすごく珍しかったんです。百貨店がなくなるということは何なんだろう、と考えると、たくさんのステークホルダーがいるんですよね。地域の人、商店街の人、取引先、そこで働くスタッフ、お客様。
一つのお店がオープンして辞めていくまでに関わっている人たちが、本当にたくさんいる。ただ売り上げだけを見ているんじゃなくて、その人たちに感謝を伝えることや、締めるということの意味は何だろう、と考えました。
地域の人たちには、最後に感謝を込めたイベントをたくさん企画して。会社にとっては在庫処分という意味もありましたし、スタッフには閉店の企画を任せることで、うまくいくという成功体験にもなりました。営業をするということ、毎朝開店できるということ自体、当たり前じゃないんだよ、ということを、朝礼でずっと話し続けていました。
── 当時のスタッフの反応はどうでしたか。
結構大変でしたね。閉店の話をした時は、みんな泣いていましたし、取引先から「もうすぐ撤退します」と言われることもありました。一緒に頑張ろうという人もいれば、そうじゃない人もいて、一致団結するのはなかなか難しかったです。
それでも、私はとにかく明るく、ここでやること一つ一つが絶対次に繋がるから、私たちは今、次のお店に行った時の架け橋になるんだよ、と言い続けていました。今も活躍している人たちがいますし、その一年間は、みんなにとってすごく濃い経験だったという自信があります。
── その当時の、ご自身のモチベーションは何でしたか。
それまで、何をやってもうまくいかなくて。肝っ玉母さん的なリーダーシップを取ればいいのか、ということには気づいていたんですけど、実際にそれで何かをやって、チームを動かしてうまくいった、という経験が、リーマンの後もなかなか訪れなかったんです。男社会の中で成果を上げてうまくいっている、という感覚が本当になかった。
でも、400人という規模でも、みんなと一緒に成果を上げていくことができる。これだったら、私にも何かできるかもしれない、と思えたことが、モチベーションでしたね。
前例がないなら、私が作るしかない

── 伊野木さんでも部長になる時、断ったことがあったんですか。
そう、最初は断りました。もう無理だと思って。マネージャーぐらいはやっていいかなと思ったんですけど、部長になるというのは、若手の頃は全然思っていなかったですし、ましてや最後役員になるなんて、全く自分で想像もしていなかったので。
── それでもやってみようかなって思ったのは、どういうきっかけでしたか。
その時、人事の部長が伊勢丹の女性だったんですが、その人に相談に行ったんです。ちょっと断ったんですけど、どう思いますか、って。今考えたら、私もどこかで誰かに相談して、背中を押してもらいたかったんだと思います。自分一人でやります、と言えるほどの勇気は全然なかったので。
彼女はもちろん、「え、何言ってるの、やりなさいよ」みたいな感じで。その時、私はワンオペで、息子がまだ2歳とかだったので、彼を育てながら一人で部長になるなんて絶対無理だと思っていたんですけど、その人事の女性は、
「大丈夫? あなただったらできるわよ。後に続く人がいるでしょ?」
そう言ってくれたんです。
── その言葉を聞いて、どういう風に変わりましたか。
もうやるしかないと思いました。そっか、そうだよね、前例がないんだったら、私が前例を作るしかないんだって。どこかで切り替わって。その後の辛さは、正直あったんですけど、でも、その時はもう、やるんだったらちゃんとやろうっていう風に覚悟が決まった感じですね。
吉祥寺店の閉店を見届けた後、伊野木さんはエルメスジャパンへの転職を決めます。ラグジュアリーブランドへの特別な憧れがあったわけではありませんでした。帰国子女として、海外に関わる多様な人たちと働く時の方が自分らしく生き生きできる、とシンガポール出向やバーニーズジャパンでの経験を通じて気づいていたこと。そして、当時の社長から直接声をかけられたこと。この二つが重なって、転職を決めていったといいます。
エルメスで見つけた”らしさ”

── 実際にエルメスへ入社されて、企業文化に触れられた中で、素敵だなと思うことはどんなことがありますか。
エルメスの企業文化や大切にしている価値観を知れば知るほど、自分が大切にしているものとすごく呼応するということに気がついたんです。多様性を尊重すること、グローバルでありながらローカルを尊重する意識、職人技やクオリティを圧倒的に追求すること。あとはファミリーであること、温かさ、謙虚であること。そのあたりが、すごく自分に合っているなと思いました。
── そういう素敵な企業文化は、どういうところから育まれてきたんだと思いますか。
ファミリーの会社なので、1837年に馬具職人として創業してから、ずっとその創業当時の職人技やノウハウ——サヴォアフェールって言うんですけど——それを徹底的に大切にしています。クオリティにこだわる、マーケティングをしない、ということをみんなが言い続けていて、もう文化になっているんですよね。
難しい判断をする時も、「これはエルメスらしいのか、らしくないのか」という基準で考える。そのらしさって何なんだろうね、という話になると、ファミリーであること、温かさ、クオリティに妥協しないこと、という話が必ず出てきます。
今の社長で六代目なんですが、ずっとエルメスファミリーの誰かが社長になっていて、辞める人も少ないんです。だから家族のような温かさがある。「息子さんどうしてるの?」って、必ず家族の話をしたり紹介しあったりする文化なんですね。
これだけの規模——24,000人ぐらいの従業員がいて、フランス企業の中でもトップクラスの会社なのに、それだけの温かさや人間らしさがあるのは、職人が多いからだと思います。24,000人のうち10,000人以上は職人なんじゃないかな。社長がずっと「うちはラグジュアリーブランドじゃなくて、職人の会社だから」と言い続けていて、それをみんなが体現しているんですよね。
パーツモデルを探せばいい
── 管理職になったばかりの女性たちからも、相談をいろいろ受けられていると思いますが、どんな相談が多いですか。
すごく多いのは、管理職になる前の女性たちが、私はなりたくない、なったとしてもどういうリーダーシップを取っていいか分からない、という相談です。あとは抵抗勢力とどう付き合えばいいか分からない、直属のマネージャーとの関係がうまくいかない、ということも多いですね。
── そのなりたくないという方には、どういう風にアプローチされますか。
まず、なりたくない理由は何?というところを聞くようにしています。
すごく高いレベルで考えている人ほど、これぐらいのレベルじゃないといけないんだって自己肯定感が低かったり、私が経験したような「俺について来い」みたいなやり方は自分にはできない、と思っている場合が多いんです。だから、自分らしいリーダーシップを一緒に見つけていこう、って伝えるようにしています。私自身も部長職を一回断ったこと、息子の話なんかもして。
私自身、ロールモデルは一人もいませんでした。身近な上司も直属も全員男性でしたが、その中でも「この人のここがいい」っていう、真似できるいいところがたくさんあったんです。Mentor Forでもお世話になっている代表の池原真佐子さんに、「ロールモデルは難しいけど、パーツモデルを探した方がいいよ」って言われたことがあって、まさにそうだなと思いました。
そのパーツモデルで、自分に足りないところを真似して実行することで、自分らしさが出てきたし、自信が出てきたかなと思うことがたくさんあります。怖かったり、苦手だなと思っていた人のいいところを探して、そこだけを真似する。それをずっとやってきました。
パーツモデルになった、パリの副社長

── いいなと思って真似したことで、覚えていることってありますか。
たくさんありますけど、最後に出会ったのは、パリ本国のフランス人の副社長、営業統括のトップの人です。男性ですし、私より年下なんですけど、彼が私の中では、パーツというか、ロールモデル的な存在でした。
本国の大きな会社のイメージを壊さない、クオリティを担保する、エルメスらしくある、という戦略をちゃんと立てながら、現場に一緒に行った時は、スタッフ全員の目を見て握手をして。お客様にどんな風に接客したのか、あと何分ぐらいで接客が終わるのか、最後のお見送りは何て言って送り出したのか、一人一人に聞いていくんです。
イベントや大きな企画をした時も、彼は必ず裏方で企画してくれた人たちの名前を呼んで、みんなの前で感謝を伝える。大勢の前でプレゼンする時も、必ずその場を仕切ってくれた人たちの名前を呼んで、お礼を言う。それを一つ一つやっていました。
経営と現場のハンズオンなところを両方持っていて、常にそれを結びつけている。それは私も全部真似しましたね。周りにも「彼はこういう人なんだよ、私も真似してこうやっているんだよ」って話していたら、周りの人たちも真似し始めて。いい意味でカルチャーがロールモデルになっていくのを感じました。
── 彼のその行動の元にある価値観というのは、何だと思いますか。
現場に対するリスペクトと、目立たない仕事をしていても頑張っている人たちへの配慮やリスペクトを、ちゃんと自分の言葉で、態度で表現すること。寛容性とリスペクト、ということなのかなと思います。
最後、辞める時に彼に伝えたんです。私、そういう態度を全部真似していて、本当にたくさん学びがあって、ありがたかったんだよって。そしたらすごく嬉しいって、驚いたけどすごく嬉しいって言ってくれて。また絶対会おうねって言ってくれました。
逃げない、責任を取ること
── 振り返ってみて、リーダーシップとはどういうものだと思いますか。
やっぱり逃げない、責任を取ること。もっと自分の経験でいうと、現場で物を作る、あるいは売る、その一番エッセンシャルなところにいる人たちに対しての、本気の翻訳になることだと思います。ちゃんとその人たちがやりがいを持って、ミッションを果たしてくれるように、常にリスペクトをして、その人たちが仕事をしやすい状態をどうやって作っていくか。
逃げない。責任を取ること。現場にいる人たちへの本気の翻訳になること。
これができないと、会社は進化しない。それをちゃんと分かっているというところなのかな、という感じがします。
今日、理恵さんにいろいろ聞いていただいて、初めて40年間のキャリアをちゃんと振り返ることができました。話していて思うのは、その時々は辛かったり、いっぱい怒られたりしたけれど、でも本当に多くの人たちに助けてもらって、教えてもらったな、ということです。仕事だけでなく、子育てをする中でも、両親や妹、保育園の人たちに、いっぱい助けてもらいました。
だから、これからはその恩返しをしていけるようなことができないかな、と思っています。今までの経験を活かして何かできないか。今まで心から支えてくれたみんなに対しての恩返しを、何らかの形でできないか。退職して1ヶ月、まだ答えは固まっていませんが、それが今の、正直な気持ちです。




コメント