「私はこういう人間です」「これが好きなんです」。私たちは普段、こんなふうに自分の価値観を当たり前のように語ります。でも少し立ち止まって考えてみると、それは本当に自分で選んだ「良い」なのでしょうか。
それとも、いつの間にか「これが良いものだ」と思わされてきたものなのでしょうか。
自由というと、好きな時に好きな場所へ行ける自由、行動を制限されない自由をイメージする方が多いと思います。時間にも場所にも縛られない、そんな自由が欲しいという声を、コーチングの現場でもよく耳にします。
けれど、その行動の自由を手に入れる前に、実はもう一つ手に入れておきたい自由があります。今日は、価値観を選び直すことと、その先にある本当の自由についてお話しします。
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「当たり前」の中に隠れていた豊かさ

このテーマを考えるきっかけになったのは、今年の夏、家族で中国・四国地方を旅した経験でした。
移動する中で、日本海側と太平洋側では、街並みも空気の質感もまったく違うことに気づきました。都会にはビルやマンションが立ち並ぶ豊かさがある一方で、自然の中に根ざして生きる暮らしにも、同じくらい、あるいはそれ以上の豊かさがある。
むしろそちらの方が、人間にとって、あるいは動物としての本来の豊かさに近いのではないか、とすら感じました。
若い頃は都会で働くことにしか価値を感じられず、田舎の暮らしを「当たり前」「取り立てて特別なものではない」としか見ていませんでした。けれど今回、その暮らしにあらためて深い豊かさを感じたのです。
日本の食文化の豊かさ――例えば海藻ひとつとっても、ひじき、海ぶどう、わかめと、素材ごとに調理法を変えて楽しむ文化があること――も、日本にいる間は「これが基準」としか思っていなかったものが、実はとても贅沢なものだったのだと、旅の中で何度も気づかされました。
同じように、日本という国そのものに対する見方も、ここ数年で大きく変わりました。
私は広島で小学校時代を過ごし、戦争や原爆にまつわる教育を通じて、「日本は良くない国だった」という価値観を、間接的に受け取ってきました。日本万歳という話ではなく、ただ「日本の良さを、当たり前に好きでいい」と思えるようになったのは、ここ2、3年のことです。
これは単に「年を取って価値観がシフトしました」という話でまとめることもできます。けれど今日は、そこをもう一歩深掘りしてみようと思います。
なぜ私たちは、自分の価値観に気づけないのか
都会がいい、成長し続ける方がいい、成績は良い方がいい。私たちが「良い」と信じている基準は、本当に自分がそう感じて選び取ったものなのでしょうか。
それとも、教育やテレビ、家庭環境といった外側から「これは良いものだ」と思わされてきた基準なのでしょうか。この問いを立てられるようになったこと自体、成長の証だと思います。
これは、誰にでも起こることです。何の影響も受けずに育つ人はいません。
私たちが知らず知らずのうちに受け取った外側の判断基準を、いつの間にか自分自身の判断基準だと思い込んでしまう。これを「内面化」と言います。内面化してしまうと、自分では「当たり前」だと感じるので、気づくことすら難しくなります。
これは、発達心理学者ロバート・ケーガンの成人発達理論で説明することができます。
自分の考えと自分自身がぴったりくっついてしまい、「私はこう思う」でそのまま終わってしまう状態と、自分の考えを一度テーブルの上に置いて、少し距離を置いて眺められる状態。
この二つには大きな違いがあります。後者になって初めて、「そもそもなぜ自分はこれを良いと思っているのだろう」と、価値観そのものを客観的に見つめられるようになるのです。この、客観視できる範囲がどんどん広がっていくことこそが、大人としての成長の一つの方向だと言われています。
例えば「選挙なんて行っても行かなくても同じ」という考え方も、自分でしっかり考えた末の結論だと思いがちですが、実は「そう考える方が知的でかっこいい」というような、なんとなくの空気に、知らず知らずのうちに流されていることがあります。頭できちんと考えたというより、時代の雰囲気にそのまま乗ってしまっている、ということは意外と多いと思いませんか?
気づいた先にある「本当の自由」

頭では「これは思い込みかもしれない」とわかっていても、いざその基準を手放そうとすると、なぜか精神的に不安定になる。この感覚、私自身もよく経験しますし、クライアントの方々にもよく見られます。
うっすら気づいてはいるけれど、そこに踏み込みたくない。踏み込んでしまうと、これまで正しいと信じて努力してきたことが、全部無駄になった気がしてしまう。親の価値観を疑うことは、親そのものを否定することになるのではないか、という恐れが出てくることもあります。
けれど、価値観を疑うことは、これまでの自分を否定することにはなりません。「なんでもっと早く気づかなかったんだろう」と思う瞬間はあっても、思ったところでどうしようもないので、今からどうするかを考えていく方が建設的です。
自分がなぜそれを良いと思っているのか、どこでそれを学んだのかと、ジャッジではなく好奇心を持って問いかけてみる。
すると、これまで自分の意見だと思っていたものが、実は世の中の雰囲気や、その時代の空気に、知らず知らずのうちに流されていたものだったと気づくことがあります。
その良さを、一体誰が決めていたのか。そこに気づいた上で、選び直せること。
それが、究極的な意味での精神的な自由だと感じます。
この自由を手に入れると、行動もどんどん自由になっていきます。実際、私自身も以前は「子供と夫を置いて、仕事を兼ねて日本に2週間行くなんて、良くないんじゃないか」と、勝手に自分の中でブレーキをかけていました。
けれど、それも「良くない」という基準がどこから来たものなのかに気づいた上で、「いや、そんなことはないよね」と選び直すことができました。行動の自由を手に入れたいなら、まずは精神的な自由を手に入れること方が、結果としてどんどん行動が自由になる。
京セラを創業した稲盛和夫氏は、判断に迷ったとき「動機善なりや、私心なかりしか」を基準にしていたと言われています。エゴや見栄からではなく、人として善い動機かどうか。この言葉は、自分にとって何が良いのかを選び直すときの、一つの拠り所になっています。
今日からできる、小さな選び直し

自分が「これは良いものだ」と思っていることについて、「いつからそう思うようになったのか」「誰の、何の影響でそう思い始めたのか」と、問いかけてみてください。
分かった上で、手放したいものであれば手放し、代わりに、自分にとってより良いと思える考え方を選び直せばいい。それでも続けたいと思うものがあれば、気づいた上で、あらためて「これを続けます」と選び直せばいい。
今持っている価値観を、すべてひっくり返さなければいけないという話ではありません。
この問いに向き合うプロセスは、決して心地よいものばかりではありません。それでも、疑ったからといって、これまでの自分が否定されるわけではない。今からどうするかを、あらためて選び直せばいいだけなのです。
40代、50代という世代は、価値観そのものが変わっていくだけでなく、その価値観を作っている外側の構造にも意識的になれる、そういう年代なのだと思います。
これまで積み重ねてきた経験があるからこそ、「あれ、これって本当に自分で選んだんだっけ」と、立ち止まって問い直す余白が生まれてくるのかもしれません。
自分の価値観は、一体どこから来たのか。それが分かった上で選び直すこと。それが、本当の自由につながっていく。そのプロセスを楽しんでみませんか?




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